ワタシ走れるんだ!

ジョギングと日常の出来事

びわ湖毎日マラソン 49歳・最年長「来年もこの舞台に」

それから記録は更新できず、陸上選手の中学3年の長男(15)は「なぜ記録が伸びないのが分かっているのに走り続けるの?」と不思議がる。だが記録を伸ばすだけでなく、年齢と向き合いながら記録をキープするのも醍醐味(だいごみ)だと思っている。 

 珍しく記事をリンクして感想を。

 

この長男は父親の何を見ているのかと最初単純に思ったんだけど、新聞とか報道って一応は主観的な書き方をしないのが作法というかまあそれだと思う。

多分子供としては「なぜ記録が伸びないのに」:伸びる可能性もあるかもしれないがピークは越えたから伸びないであろうになぜ「走り続けるの?」でありこの走り続けるの?は走り続けられるの?ってところなんかなあとか思いました。

なぜ続けられるのか?こういったバイタリティはどこから来るのか、起因する理由をどのように個々で見出だしているのか?

走り続ける理由に、ここでは記録を問うているだけだけど、例えばそれ以外にどういった動機があるかを知るのは中々興味深いものだと思う。

この辺りを明確にしてる人ほど続けていきやすいんじゃないかしら。

 

あまりに走るのが当たり前の生活になると理由とか忘れてしまうんだけども。ご飯食べるとかと同義な、ご飯食べ忘れるとかたまにあるけど。

話が外れるんですが、と言うか今回はこっちが本題で、「理由」というところでランニングにハマるよりずっと以前から漫画を描いていた。漫画を描いていると大抵「なぜ描いているのか」みたいな質問が出るし、だいたい明確に答えられる人はいなかったように思う。答えに対してそれは答えに値しないと感じたということであって色々な他人のインタビューをみても納得できるものはなかった。

  1. 映画などと違って一人で全て演出(描ける)できるから
  2. (描くことが)空気みたいなもの
  3. 金になる
  4. 自分にはこれしかない
  5. 楽しい。辛いけど楽しい、むしろ辛いのも楽しい
  6. 描くことそのものが己の人生を作ることである

等々。※「描く」を「走る」とか別のものにも置き換えられる。

だいたいこんな感じにもの。自分もほぼ被っている。理由を聞かれて理由づけされた理由に過ぎないレベルで自分にしても納得できない答えなのだ。

そこに商業デビューやそこに至る持ち込み・投稿、ネタへの悩み、表現への技術、他人のデビュー、自分への評価、自分自身の評価とか色々絡んで来る。そこに仕事も絡みつつ、家族のことも考え睡眠を削りよく生きていたなあと思う。

今私はほぼ1年ほど筆を置いている状態で、途中仕事で描いたことはあったけど自作品は凍結したままだ。描いたものがそのままお金になり生活基盤になったなら強制的に今も描き続けていたかも知れない。しかしそうでない絵描き・漫画描きは一体どうやって続けていられるのか?

走る=なんてどれだけ好印象で健康的なのだろうか。故障で走れないというのだって辛いは辛いだけどなんと恵まれた辛さだろうか。

漫画=さっさと辞めたらいいのに、という強迫観念がランニングとかスポーツ方面と比べると100倍くらい強い怨念プレッシャーを感じる。時間がかかる割に損失の方が大きい。努力で面白いものが描けたらみんな大成功、下手に画力があったら「画力だけ」みたいなフィルターがかかる。画力も武器ではあるが。

 

なのでランナーさんが走るのやめよーかなとか書いてるのをみたら好きにすればいいんじゃね?くらいな感じ。やめたってまたいつでも走れるしね。なんなら他のスポーツもあるしね。

漫画はすぐ始めたりできないなあ、まああれもまだやめては無いんだけど、時間をひねり出すのに物書きはなんだか単純に1時間できたから1時間作業できるかって出来ないから、再開のめどが立たない(立っていない)。自分にとってはなんだけど続けるのに作品を書くことと走る事との難易度が全然違う。あくまで「続ける」ところであって目標や達成や成果は入れていない。

 

走るって走れるって幸せしかないもんね。悔し涙だって甘くて幸せだもん。マラソンの沿道で他人の家族や友達が応援してるのを見てるとなんて愛に溢れているんだろうって思う。

私は逃げているんかなあ、作品から、まだキャラたちは死んでいないのに。もう誰も聞いてきたりしないよ?なぜ描き続けられるの?描かないの?なんて。発信し続けてない自己責任ではあるけどどんどん孤独になってくだけだ。こんなんで描き続けていけるのか分からない。

私の公開中の作品を好きだと思ってくれた人がブログに来た時、こんな文を読ませるなんて酷い話なのであまり直結していない「ワタシ走れるんだ」ブログに書いた。

こんな日もあるさ。